シャルル・フレジェ:Yokainoshima

シャルル・フレジェの最新のプロジェクトYOKAINOSHIMAは日本全国の伝統的祭儀に用いられる様々な衣装のビジュアル・アーカイブである。多種多様な精霊、怪物、神的存在を表す「妖怪」は英語にはない日本ならではの言葉で、その姿はここでは衣装という形に現れている。YOKAINOSHIMAは、北斎という最も鮮烈に記憶に残る「妖怪」たちの姿を創り出した独創的アーティストへのオマージュであるとともに、日本の地方社会と仮面の裏に慎ましく存在する名もなき民衆についても同様に敬意を示すものである。

 

Charles-Freger-Yokainoshima-1

私が衣装と祭儀へと興味を惹かれたのは自然なことでした。2004年に始めたヨーロッパの王宮衛士に関するEMPIREプロジェクト、2005年の中国歌劇に関するプロジェクト、そしてカーニバルを扱うFANTASIASシリーズを通じて触れることのできた様々な機会から、人物と風景を組み合わせるなどの私にとって本当に重要な試みが生まれました。私が撮影したすべての集団に共通しているのは、彼らが何かしらの掟と伝統に関わっているということです。私の仕事はそれらをありのままに取り出してくることです。もしあなたが英国で王宮衛士に関するプロジェクトを行い、ベアスキン帽を身に着けてみれば、彼らがあの衣装を身につけることで熊になりきっているということを容易に想像できるでしょう。

 

私の作品を民俗学的に捉える人もいますが、私自身は民俗学者ではなく、スピリチュアリティも私の得意分野ではありません。「スピリチュアル」や「神秘的」は私のための言葉ではないのです。私が惹かれるのはコミュニティの外側の表皮です。そして、私が信じているのは集合的なもの、つまり、人々が集団になることで生じるものごとです。共に在るという感覚は大きな力を秘めています。

ほとんどの儀式はスピリチュアリティではなく [自然や他者と] 繋がること [そして、属すること] に関わっています。豊作、運動、そして農業を祝福するこれらの伝統は身体性に結びついているのです。

 

私の関心は祭儀用の衣装がいかに着用者を変貌させるかという点にあります。ある意味では、彼らは外皮を取り換え、別の誰かになっているのです。衣装には人の心のありようを変える大きな力がありますが、それは神秘的なものではありません。いわば子供が別の誰かに変装するような一種の遊びであり、時としてそれが本当に別の誰かになってしまったかのような感覚をもたらすこともあるのです。

 

Charles-Freger-Yokainoshima-3

日本の祭儀はヨーロッパのものと比べてとても演劇的だと私は思います。そこでは [衣装の持つ] 役柄が人格そのものを変貌させるということはないように思えます。つまり、人々は自らの人格や人間らしさを [役柄のために] 抑えようとはしないのです。それはあくまで芝居であり、[演者の人格と衣装の役柄に] 距離があるのです。ヨーロッパで私が撮影した衣装のほとんどは着用者を別の誰かに [人格ごと] 変貌させる要素を持っていました。衣装の造りが着心地のいいものではなく、物として抑圧的であるということも理由のひとつでしょう。また、ほとんどのヨーロッパの伝統 [祭儀] は飲酒と不眠を伴い、三日間を通して続く祝祭の宴もあります。十分な睡眠も取らずに飲み食いをし、呼吸もおぼつかなくなれば、ある時点から自分が本当に熊だと信じてしまう人々も出てくるというものでしょう。

 

日本では、祝祭の宴と飲酒は祭儀の後に始まります。参加者はまず寺に集まり、準備を行い、軽食を取ります。道順、身のこなし、口上と、何もかもがよく段取りされています。それがすべて完了すれば、彼らは元に戻り、着替え、朝まで飲み明かします。ほとんどの祭儀は寺で行われますが、その寺の規律を尊重し、大抵はとても速やかに終わります。[祭儀に用いる] 仮面は寺のものであることが多く、境内から持ち出すことは許されません。ヨーロッパでは教会で行われる祭儀はありません。ヨーロッパの伝統行事は異教徒的なものでキリスト教とは完全に分離していますが、日本の伝統行事は仏教と神道に深く結びつき大いに敬われています。

 

Charles-Freger-Yokainoshima-2

私の父も姉も農業に携わっており、私自身も農家になるための勉強をしました。私は美術学校に転入する前に農業学校で5年過ごしました。農業には今でも強い繋がりを感じています。私が撮影した人々と私の間には農業的な関係性があります。私の被写体の多くは農家や漁師です。彼らの手を見てみてください―そこには水田やじゃがいも畑で働く彼らの生涯が現れています。このプロジェクトのために私は農作業に関わる仕草を注意深く観察し、彼らの体のひねりが農業の身体性に結びついていることがわかりました。多くの写真にそれを見つけることができます。

 

都市の住民は自分たちが何を食べているのかということに実に関心がなく、店に行き商品を買うだけで、その裏側にある人々の労働について考えることはありません。そのことを思うと私の心は大いにざわめくのですが、この気持ちはますます強くなっています。私たちは欲しいものを望むだけ食べられると信じており、食料の存在をあたりまえのように感じていますが、フランスで人々が飢餓のために命を失っていたのは遠い昔のことではありません。そんなことは二度と起きないだろうと私たちは考えているのです。

 

日本の農業的な衰退は遠い未来のできことではなく、実際にはすでに始まっています。私が撮影した農家のほとんどが65歳以上でした。田園で若者が働く姿を目にすることはありません。日本の人々がそれを気にも留めないことは不思議に思えます。新幹線で東京から3時間の場所で起きていることにどうしてこれほど無関心でいられるのでしょうか。この断絶を私は大変な悲劇だと思います。

YOKAINOSHIMAを通じて、私は仮面の裏側の人々の多くが農家や漁師であることを改めて感じました。それは、決して忘れてはならないことなのです。

 

シャルル・フレジェ

 

All photos © Charles Freger. Courtesy of MEM Gallery, Tokyo