鈴木理策:海と山のあいだ

人間はいつも何かを見ている。寝ていて夢を見ている時も。光によって形となったすべての物は網膜を通して脳内で情報化されることより認識される。見るという行為はこの一連の作用である。認識されて初めて見るという行為は完結する。つまり夢を見るのも同じで、脳が、あるいは心が見ているということである。

写真術は人間の「見ること」への欲求から発明され成長してきた。しかし、見るということはおぼろげだ。目の前の事物を心が見ているということであれば、与えられた名称こそは共有認識できるとはいえ、その見え方は心が同じでない限り百人百様である。誰が本当の「それ」を「それ」として認識できることができるのであろうか。いや、本当の「それ」というものは無い。すべてはリアリティの中で語られる。写真家が何を撮ろうとも、何を印画紙上に表わそうとも、不安定な「見るという行為」がそれを認識し解釈していくのである。第一、写真を見るということは実際は銀粒子やピクセルの塊を見ているのであり、事物の認識はリアリティを通じたものでしかないはずだ。

また一方、意識をして見ていない物たち、つまり、網膜におさまっていながらも認識に至らない物は何なのか。そこにはホコリやペンや小さな虫もいるのだろう。しかし、見るという積極的な意識にない物たちは認識下におかれていないのだから「見ていない」または「無い」のである。網膜に写りながらも。「見る」こととは心のリアリティとしての存在と認識を語る以外にないのかもしれない。
 

人間は物と心とその欲求でできている。ということは、儚い夢を追い続ける、または浮遊する生命体だと言えようか。ブッダは言う。光明は慈悲をあらわすと。この言い方はとても美しいではないか。

鈴木理策はこういったことをよくわきまえている作家だと思う。「見ること」に優れている作家であり、見えないことをよく知っている作家である。ピントを合わせる事も迷うのだから。しかも可視不可視に漂うだけではなく超越して行こうとする姿は素晴らしい。
 

谷口昌良

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